ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられていますが、かつては島でありそこに大可島城がありました。
康永元年(1342年)伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとし、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立ちました。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向かいましたが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流されました。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えたのです。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及びましたが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返しました。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰りました。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられています。
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